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夢で見た…

子供の頃から祖父母の郊外にある農家だった家が好きでした。

 

その祖父母がとうに街中に家を移していた20代半ば頃、
祖父母が時折通うだけのここに住みたい。と言ったら
あんな田舎に娘を一人置くなんて!
母に即時却下されたことがあります。

祖父母の一番年上の孫なので愛着もひとしおだったのだが、
却下されたため、Pさんと結婚できたのであろう…

 

 

 

 

祖父母が他界した後、
その地は一回り以上年下で一番年下の内孫である従弟のものとなりました。

祖父母のお参りに行った後、叔父が山の家に行ってごらん。と。
もう数年山には行ってなかったし、なんか建てるらしいとは聞いていたが…。

これ、数年前から見ていた。夢で。

 

 

 

これ、もう何回も夢で見てたよ、形はちょっと違うけれど色も質感も…

 

 

おお!稚内の珪藻土、床はツーバイ材…こういう話であーゆー話で…と。

従弟は釧路近郊出身の方と結婚し、今は自営で大工をしている。
山の元々あった古い家を仕事場にしてその横に小さな家を自分で作った。
もうすぐ仕上がって引っ越し。

 

 

 

孫、一番上と一番下は山が好きすぎる変わりものなのだろう。

 

歳が離れているから子供の頃の彼の記憶しかないけれど…。
無造作に巻いて置いてあるギャッベに驚愕していると
『mikaと好きなものが似てるね…』とPさんは笑いながら言う。

 

mika 山は継ぐ者がいるから大丈夫だよ。
きっと、じーちゃんとばーちゃんが見せてくれていた夢だったのだろう。

 

 

えーと、じーちゃんばーちゃん。
これってつまり…あちらから内孫自慢ってことよね…ちょっぴりしょんぼり。
確かにあなたたちにとっては孫もひ孫も多いでしょうけれど…
外孫一番上もあちらから応援してください。

 

 

 

ちなみにこの日のPさんの写真と言えば…

『mika見て~ 稲が実ってるよ~首を垂れるっていうの本当だね~♪』
超ハイテンションで稲穂ばかりを撮っていました。
田を見て喜ぶのは相変わらずのようです。

 


屈斜路源流近くの森にて

Pさんはよく私の写真を撮ってくれます。
こういう場所での私の行動が面白いらしいです。
でも何で私は草を手にしてるのだろう?
どうやら、この日は私のKIN誕生日でした。
ちなみに青い磁気の鷲です(*^^*)

うん。納得(*^^*)

小さい頃から田舎にいることが多かったので。

危険かそうでないかを体感しながら育ちました。

 

だって、道があるから(道なき道とも言う)

今の親御さんが見たら
どれ見ても危ないって言われちゃうかな?

 

 

いつだったか、従姉妹たちとそんな話をしていたことがあります。
『私達は今考えると危ないところでも遊んでいられたけど、
子供たちには危ないからやめなさいって言いたくなる』って。

 

ギリギリのところで手を出さずに、
見守られて育っていたことに感謝しないとね。

 

 

スペクトルの月だったのか…。
まぁ…そうだよね。

 

 

 

解き放て。ってね。

 


祖父母の家

何度か書いています、幼少時代を多く過ごした
旭川と隣町の境界近く、
祖父の家の画像データを探してました。

私が子供の頃は、家の周りはため池や水田だったんですけれど。
私が10歳の頃、祖父たちも高齢になり、
市内中心部に近い所に家を建てここは夏の家となり、
以降『山の家』と呼ばれるようになりました。

そのうち、減反で田も潰し、小麦に変え…
子供の頃とは風景が変わり…
その後は、日帰りで行く場所となり…。


よく祖父はカラオケの練習に山に通ってました。(笑)

親戚みんなで花見をする会場になったり…。
『今日山に行く?』みたいな使い方をしていました。
この時期、花が咲いてる年もあればそうでない年もあり…。

 

風景って当たり前にあると思っていたから…。
なかなか探してもないものですね。
もっと古い写真ならあるのかもしれないけれど
デジカメのデータはこれくらいしかないかな。

従姉妹の子供たちが、教えたわけでもないのに私達が子供だったときと同じように遊びます。
これももう10年近く前の画像ですけど。

こうやって命って続くのね…。

10年ほど前
帰省した折、夏の流星をみたいと友人に言われて。
それならば、街灯すらないここを!と。
ここで見ました。市内と違うこの田舎ぶりに友人も驚いたようで…。

幼少時、この丘をそりで滑り降りる際に、
祖父から伝授された有刺鉄線から逃れる術。
幼稚園頃までは散々失敗をしたものでしたが…。
この光景も…。

友人が撮るとこのようにすてきに(*^^*)
(Nさんありがとう。使いました)

星メインだったはずなんだけど、夜明けに感動してたっけ。

街と田舎を行き来していたことも…。
それが今になっているんだろうなぁ。

 

道内各地で20℃超えの声を聞き。
10℃のほどのここから『暖かい場所に行きたい』と
ちょっぴり思うのでした(*^^*)


八百万の国許で

幼稚園は礼拝堂があって牧師様がいるカトリック系、
高校は仏教系高校、一年生の時は宗教の時間の単位ってあって…
祝儀は神前で、葬儀は仏前。

スピリチュアルだから何某宗教的なのか?
近寄りがたい。と。
すごぉく遠くからよく聞かれる事なんですが、八百万の神の国の許。
皆様となんら変わりません。

私の亡父は石材職人でして、
昔はお盆に納品する墓を直前まで現場で作っていた事もあり、
上半身裸で、布の晒を腰に巻いて見た目は任侠的な風貌で仕事をしていました。
仕事上腰に負担がかからないからとか、暑いから。と言う理由でしたが。
そういう仕事をしていたので、門前の小僧習わぬ経を読む。が父の日課でした。

お盆に自分のお墓で経を唱えていると、
お墓のご近所の方々に『お願いできますか?』とお経を依頼される事も多く、
本職ではないので、ボランティアであちこちのお宅に行っているのを待っている。
と言う事が幼少期から多々ありました。
なぜ、明らかにお坊様の衣装と違うのに、それでもなのか…と不思議でしたけれど。

それから、親類の不幸の際は大抵、父がまず仏前でひとつ経を唱える。
そしてどっかりと仏前で胡坐をかいて座っている。
それだけなんですけど。
そうすると周りが落ち着きを取り戻し、それぞれがやるべきをはじめる。
今でも、その事はありがたいことによく周囲に言われます。

父などに比べたらまだまだとは思うのですが、
ほんのひとかけら、そのDNAを受け継いでるのかもしれないなぁ。

祈りの形は色々あるのだと思います。

どちらかと言えば『祈ってなんになるの?』
ときっと誰よりも思っていたタイプだと思います。
だからいまだに『祈りましょう』なんてなんかどっかが痒い。
自らすることはあってもご一緒に、とは言えないけれど。

八百万の国許。
だから祈りのスタイルはそれぞれでいい。