幼稚園は礼拝堂があって牧師様がいるカトリック系、
高校は仏教系高校、一年生の時は宗教の時間の単位ってあって…
祝儀は神前で、葬儀は仏前。
スピリチュアルだから何某宗教的なのか?
近寄りがたい。と。
すごぉく遠くからよく聞かれる事なんですが、八百万の神の国の許。
皆様となんら変わりません。
私の亡父は石材職人でして、
昔はお盆に納品する墓を直前まで現場で作っていた事もあり、
上半身裸で、布の晒を腰に巻いて見た目は任侠的な風貌で仕事をしていました。
仕事上腰に負担がかからないからとか、暑いから。と言う理由でしたが。
そういう仕事をしていたので、門前の小僧習わぬ経を読む。が父の日課でした。
お盆に自分のお墓で経を唱えていると、
お墓のご近所の方々に『お願いできますか?』とお経を依頼される事も多く、
本職ではないので、ボランティアであちこちのお宅に行っているのを待っている。
と言う事が幼少期から多々ありました。
なぜ、明らかにお坊様の衣装と違うのに、それでもなのか…と不思議でしたけれど。
それから、親類の不幸の際は大抵、父がまず仏前でひとつ経を唱える。
そしてどっかりと仏前で胡坐をかいて座っている。
それだけなんですけど。
そうすると周りが落ち着きを取り戻し、それぞれがやるべきをはじめる。
今でも、その事はありがたいことによく周囲に言われます。
父などに比べたらまだまだとは思うのですが、
ほんのひとかけら、そのDNAを受け継いでるのかもしれないなぁ。
祈りの形は色々あるのだと思います。
どちらかと言えば『祈ってなんになるの?』
ときっと誰よりも思っていたタイプだと思います。
だからいまだに『祈りましょう』なんてなんかどっかが痒い。
自らすることはあってもご一緒に、とは言えないけれど。
八百万の国許。
だから祈りのスタイルはそれぞれでいい。