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盆の入り前 思い出

明日から盆の入りですね。

夏、子供の頃は父の仕事の繁忙期、唯一父といられる娯楽と言えば墓参りでした。
家では当たり前だったから普通だと思っていたけれど、変わっているみたい。
この間虫干しした写真、写メればいいか…

お盆時、父に会うためには父の仕事現場にいればよい。という事で日時を合わせて集まるのは墓の前。写真当時は、お盆までにお墓を…と、石材職人の父は夜中まで現場に出て(墓地)仕事してることが多かったのです。

そしてみんなで集った後、父はまた現場へ。
なので、子供の頃、父方との写真は墓地の写真ばかり。
お盆だし、写真もそんなにない世代だけれど
今日はその中から…周囲の人達を ちょっとあーしてこーして。

 

叔父が撮ってくれていた
一番歳が近い2つ上の従兄と何年か同じ場所シリーズ

 

1歳
ちょうど、つかまり立ちするのによかったらしい。
そして掃除の邪魔にならないのでここに保護されている。
横の従兄はしゃがんでくれているので同じような背丈になっている。

ちなみに、うちの墓でも親族の墓でもない。
父が『俺ここ、知ってるから大丈夫だよ~』みたいな…

 

2歳

洋服は母が作っていた
きっと母もおしとやかに育つと信じていた頃

 

言葉が遅かったらしく まだ話せない頃。
この頃は前頭葉が発達していた クジラ族だったからだろう(あいまい)

 

幼稚園くらいかな…(どんどん丸くなってきたころ)

従兄が来れなかった時は、一人で撮ってくれてたんだね
同じ場所で撮り続けてくれるのって、成長過程が見えてなんともありがたい。

 

小学生低学年頃

墓地でスイカ割りもする。
スイカは写っていませんが、ちゃんと割れなかったので目を開けて割っています。
この頃、私の中では夏休み最大の娯楽だから楽しくてしょうがないの。

この写真頃までは母が作ったニットか布のワンピースでしたけど…

スイカ割してピンクのわんぴーなのにこれですもの…
もうおっさん…っぽいでしょ

 

この日も父は仕事だったらしい。
あれっ?って思って拡大して確認したら耳に墨付け棒乗せている。
この後 現場に戻っていったのだろうなぁ…

 

お盆の頃の こんなこと


映画を見てきました

ラ ラ ランドを見てきました。
TLで予告を見た時に、アカデミー賞とか抜きにしてなんか見たいなぁと。
内容はスルーで。みんな見てきてね。

で、別の話を。
小学生になる前くらいかなぁ。
父と映画にレイトショーでよく映画見に行きました。
覚えてるのもあれば覚えてないのもある。
ミュージカル映画の記憶の方があるのは多分字幕が読めなくても、
楽しめたからじゃないだろうか…。
けれど、学生時代にミュージカル映画、学生もののミュージカル映画って流行って周囲の話って聞いたけれど、未だに見たことないんだよね。

Pさんに『子供の時はパパと映画に行くよね』って言うと
『へっ?』って言われた事もあったけれど。

いやいや。
ちびっこプリンセスは王様のエスコートで大人の世界に行くでしょ。
なんちゅーの?社交界デビュー的な…例え普段着でもね。
ちびっこだからって、アニメ的とかなんたらマンガ祭りとかではないのよ。
マイフェアレディとかね…そういうのよ。
プリンセス的な…そうプリンセス的(あいまい)
そしてプリンセス的気分で行って帰ってくるのよ。
それには偉大な王が必要なのよ。
と、力説したところで涼しい顔のPさん。

父はですね、うお座でして…
これはうお座ロマンの世界よね。

子供に媚びずにセレクトしていた父には感謝しております。
ラ ラ ランド ちっちゃいプリンセスと見に行くパパがいたらすてき。
人生に於いて誰かとの映画の思い出があるっていいよね…

そんなこともあり。
うお座ロマンな父だったため、
何とかおっさん化防止に貢献していたのだろうけれど…。
私の中のうお座ロマンが枯渇通り越して…忘却の彼方へ…
あっ、よりおっさんになってしまう。いかんいかん。
うお座ロマンかもーん。

いやーミュージカル映画ってほんっとうにいいもんですね


50の冬至頃に思う事

冬至でございます。陰から陽へと。
今回は実になんとも…大きな節目だったなぁとしみじみ。
ゆず湯、小豆や南瓜、古よりの贈り物は受け取ったほうがいいよ~。
早起きして日の出スタンバイしてましたが雪も時折、曇りの朝。


(諦めて曇りでも写真撮りますよ と言うとおひさまにっこり 晴れてきそうかしら)

随分先日SNSで友人がやっていたパーソナル診断というものをしました。それを噛み砕く作業に時間を要し今頃なのだけれど、結果は16種類の中の4%程度の仲介者で花と蝶が飛んでるキャラ、そんなに蝶よ花よと育ったかなぁ…。

自分史を回想してみる。
じーちゃんと子供の頃、山の中で修業した熊退治の方法とか大人になるまで秘密にしてたのに、からわかれてただけだったと判明する。
初デートは叔母達に代わる代わる会うという偶然かと思ってたけれど、家に一個しかない固定電話でその約束をしていたため、母が母の妹達に話して面白がった叔母たちが代わる代わる観察に来たと知る最近とか…。(きっとイマドキあり得ない)
バイトと塾(高校生になって初めて、小学低学年と一緒にそろばんを習うそして小学生に教えを乞う偉業)と学校と3ついっぺんだと腹膜炎寸前になったとか…。
自ら取りに行くというより受け身のほうで、交友範囲も当時から多い方ではないんですけれど…。
一例をあげるとそんな感じ。(とても長くなるので割愛)
友人に言わせるとガードナーがどこかにいるような日々の連続

どうやら私の日々は大抵面白いに彩られている。
面白いまでに至る道が普通は通らない道で、多少風変りではあるのかもしれない。

確か、この世にブログというものができた頃、師は仰った。
『面白いからブログに書くといいんじゃないですか』
そういうことか…(今更)

ここを50になったのでしゅっとしゅっと…もう50なんだから…
しかしこの世はそう思えば思うほど面白い方に転がるわけで…。

結果。
降参だ。認める。面白い。

昨今はそんな流れに乗って動き出す皆さんを見てると嬉しいです。
こういうの見てなんだかほっとして、冬眠しちゃうのも私。

書いてる間に、お天気晴れてきましたね よきかな


きんちゃくうどん

もう何十年か前、家族で街ブラした際、
こじゃれたうどん屋でこんなのを食べた覚えがある。
旭川に帰省した際などに、母がたまに言うのだがそのお店はもうない。

中学生までは月一恒例行事。
公共機関で出かけて、デパートなんかをみんなでぶらぶら。
お昼にご飯をみんなで食べて、またいろいろぶらぶら。
そして甘味処などで食べて、デパ地下で買い物して帰る。みたいな。

何気ないのだが、そういう思い出を作ってくれた両親
この歳になるとありがたいなぁとしみじみ感じる。

何を食べて自分の身体が出来ているのか…
両親と一緒に食べた思い出が50目前の今になっても血肉になること
もある。

未来の大人達にも、そんな明るい未来があるといいね。


(玉うどんで)

ちなみに大揚げ、4枚100円と言う神価格でした。
なので、思い出して作ってみようと…。
巾着を庭のチャイブを結わえる。


(乾麺で)

おいしくできました。

このブログを楽しみにしてくださっている母のみなさんへ


水鉢

石工だった亡父が45歳くらいの時、休日に設えたもの。
このあいだ帰省した際に撮影してきた。
設えてから35年ほどが経つ。当時の父の年も超えたのね…。

そんなに水が溜まらない仕様で、上面はつるっとした仕上がり。
側面は刻みで(細かくギザギザしてるの)。石は札幌軟石。
この菊、何で12面でなくて10面なんだろう…とかぼんやり思う。
なんか言ってたはず…いつか思い出す。

 

こういう仕事をしていた父は、円の割り付け法など、
学校で習わないことをいう事があった。
それはいつも魔法のようだった。多分技術なのだろう。


(父の道具もらい受けた一部 使ったこともある私)

 

丁稚から修業した亡父が機械化してゆく仕事場で
全て手彫りと言うのを忘れないようにしたかったのか…。
父の父も石工だったからなのか…。今では知る由もない。

 

そして今では水鉢の用途ではなくなってるけど…

 

このようなものがある故、父の義弟が
『石のわかる石工の兄さんには…。』と、昔ロックガーデンを作った。
彼は造園業をしている。
青石や赤石その他色々…建売住宅が並んでいる一角で。
高さ70㎝ほどの土留めとなる岩たちをぐるっと配置し、
義父が趣味で育てたイチイなんかが植えられ、
盛り土の上にも背丈より高い立岩が…という庭となっていた。
時に地蔵もあり、時に灯篭もあった。
石の基礎合わせとか父も手伝っていた気がする。
父にとっては、義父、義弟とのコラボ庭。

そう言えばPさんも初めて来た頃、庭に驚いていたっけ…。
庭の写真を撮った覚えがない。普通だと思っていたからだろう。
しかし、今よく考えると若干変わっていたとは思う…

 

私にとっては叔父、10数年前のものだけれど、
その資材置き場の一角の写真を撮っていた。
これにもPさん驚いていたっけ…。

 


(当時も こんな私)

 

 

父が亡くなってから数年が経ち、母が庭を小さくしたいと言い出した。
石のパワーをよく知る故だろう…。
立岩など大きいものは引き取ってもらい庭を縮小して
叔父に作り直してもらったらしい。

父が収集していた黒曜など小さな岩なども
その際、水鉢の周りに配して…
今は隅でちょっと埋まりちんまりと見守っている。


上川神社にて

上川神社の事は前回詣でた際にPさんがどこかに書いたので
私は産土的な視点で。

昔は16丁目と言う通りに鳥居がありまして、
その通りに面した位置に住んでいた私は、
父とたまに徒歩で出かけていました。片道2㎞ほど。

現在は駅前高架などで道路が変更となりそのかつての橋はなく、
その通りにあった鳥居も移動しています。
未だにちょっと不思議な面持ち。

子供にしてみると神社までの上り坂がまずちょっと大変で…

やっとたどり着いた神社の第一鳥居からがまた遠かった。

 

 

この大きな木を目指して…手水舎までやっと登る幼稚園時代
当然ここでひとやすみ。

 

 

そこから第二鳥居の石のある所までまたなんとか。
もう帰りたい、もう無理と登る幼稚園時代。

 

この広間で遊んで帰っていいかと聞く幼稚園時代。

ここで右手に曲がってもう少し上ると…

 

 

泣こうがぐずろうが、何とかなだめすかして自力で登らせる父。
多分、自分の足で登らないと意味がない的なことを言っていたような…
父は偉大だわ。とぼんやり思う。

本殿のある所までたどり着いたら
後ろから来たカラスアゲハが(ミヤマカラスアゲハかな?)が
ひらひら…ではなく鳥のように飛び去って社殿の方へと…。

 

旭川にしては風の強い日だったけれど、
蜜虫のあんな大爆走しているのにそれでも雅やかなの初めて見ました。
なので急いでお参りを。

 

そんな私にとっては至って普通に産土神社…
なので、神社とはこういうのが普通と思っていたけれど…。

政治家や芸能人も詣でるほどパワーがあるのだとか…
(Google先生にききました)

 

 

最後の桜もまだ待っててくれましたよ。

ここで携帯の電波来ない…。って方いらしたのですけれど…。
参拝を終えて確かめてみましたけれど、そんなこともなく…。

それはきっと…今一度。ってことでしょうかね…。
運気を上げるにはそれなりのお作法必要ですよね…。
私でよければお付き合いしますよ。

なんともここは雅やかな所なのです。

とは言え。
こちらに住んでからずいぶん経ちました。
あまり欲しいものの欲がない方ですけれど、
かねてから頂きたいなぁと思っていた
産土のオリジナル御朱印帳と御朱印頂いてまいりました。


SNSで和む

先日SNSで和みました。
と言うのも、会う機会もないまま30年程時が経ち…と言う同級生私の場合SNSでは多いんです。
最近までは、SNSでさっさと友達になった後、
あとの同級生のみなさんはご自由に、みたいなスタンスだったのですが…。

つい先日、また同級生見つけたのです。
同級生の中では早い誕生日で、昔から歳よりはおにーさん的で、
おにーさん顔だったんですけれど…見つけた瞬間、まず私唖然。
昔そのままの人がここにいるじゃない…
学生の時、大人になってもきっと変わらない顔なんだろうね…って
みんなで言ってたけどやっぱりそうなのねっ!
おっさんになってしまった友達に言わないと!
みんな、たいへんよーっ。
あなたたちも私も、ぼやぼやおっさんになってる場合じゃないわよっ!

同級生とは言え、元々メッセさえしないタイプではありますが…。
ウザいババアになったと言われようとも
清水の舞台を飛び降りる覚悟でメッセするわけです。

この唖然を伝えるべく他の同級生に、そして騒然(笑)

最近とみに思うのです。
まぁいいか、明日がある。ってあんまり言ってられない年齢なんだなぁって。
ちょっと昔の時代ならとうに寿命尽きてる。
大事なことはさっさと言っておかないと、
明日来るかなんてわかんない歳になったのよっ!と。

 

SNSって学生の時、大喧嘩(バイオレンス的なのではありません)した男の子の友達ってほんの何人かいる。
大抵女子の友達はどん引くレベルなんだけれど…(女子とはしません)

その先を知ってるのに諦めようとするから喧嘩するのか。見たいからだったのか…。

…なんでしょう。何年かかろうともその大喧嘩を昇華させる何某。
超えてるね…的な。
『なんだろねこれ?』って一人に聞いたら
『盟友』って言われましたけど。この歳になるとしみじみよいものだ。感謝。

絵もない 華もない 色もない 男らしい話で残念ですけれど。
そんな友人たちにびしばし鍛えられた系。
おっさーん ふぁいとおーっ!
みんな道内外各地にいますから、
あははは。じゃぁ一緒に飲むか。ってなれないのは寂しい…。

こちらに住んでから、そんな私にもし出会ったことがあったとしたら…。
それは極めて稀。
でしたら、今生残りは、極上の笑顔と共にどうです?
たまに大喧嘩付き。いや、もう大人だし…
喧嘩はしない 多分しないと思う しないんじゃないかな ま、ちょっと覚悟はしておけ
さだまさし風に締めたところで。

4月最初の話はそんなぐだぐだ。


前歯が欠けたら…

父が職人だったから減を担いでそうだったのか、はたまた家訓なのか(多分違う)
前歯が欠けたら運が逃げるから速攻で歯科に予約と言うのが実家では現在に至るまで常である。
母は大人になってお仕事をするようになるとお会いする方に失礼なことだから。
とも話していたっけ。なのでそれが普通かと思っていたけれど…。

…どうやら世の中はそうでもない。と社会に出てから思う。

この間母に電話した際、Pさんの歯がね…。と話したら間髪入れず
前歯が欠けたら運が逃げるから予約して。と言うので笑った。
同じこと私も言って、Pさん通院してるから大丈夫だよ。と続けた。

運が逃げると言うのは、今ある良い運を指しているのだろうか。
では、そうでない方の運の場合…ある程度、運が逃げてからだといいのかなぁ?
それとも…
半年ほど前、実はほんのちょっぴり私の歯が欠けたのだけれど、そんなことを思った。
いつもなら実家基準速攻予約レベルではあるが、人生初やり過ごすという実験を開始。

先日ついに治療して思った。
痛みかどうかもわからないようなほんのかすかな痛みが長期間続くってことは、
無意識に身体や心に蓄積するんだろうなぁ。

結果。
家訓(多分違う)は守ろう。


すきーすき?

『身体が弱いから鍛えないと、大人になった時にこれくらい出来ないと』と
郊外の山に住んでいたじーちゃんは、幼少の頃は週末毎に家に迎えに来た。
小学生低学年中、冬休みは当然合宿。

じーちゃんの若かりし時代、勤務先で山の中の郵便局では移動手段のひとつだった。
アザラシ皮のゾンメルスキーで華麗にテレマークを決めるじーちゃんは旭山の赤い彗星(笑)

スキー場での練習はもちろん滑り方など子供用ではない。
カンダハで泣きながらついてゆく私にそのうち愛想を尽かし
自主練を課してさっさと一人リフトに乗って行ってしまう。

ゲレンデスキーとは孤独なのだ。子供心に思った。

山林トレーニング、気を抜くと立ち木にぶつかる。下手だからぶつかる。
有刺鉄線の牧場トレーニング、気を抜くと有刺鉄線に激突する。
田圃の中の歩行自主練、気を抜くと深雪の下の田んぼの泥水に埋まる。
スキーとは孤独だ。
吹雪の田んぼのまんなかで大の字に埋もれ(この方が温かい時もある)
空を見上げ囁く雪を騒ぐ風を仰ぎ見る…のは楽しかった。
孤独のはずなのにその何者かを…どう思っていたのだろう。

当時小学低学年ってカンダハ(今の山スキーとかのに似てる)だったから、
冬休みが終わるころはもう板がボロボロだった。
そうだ、同級生は山林や有刺鉄線のある所や田んぼで練習しない。
と、ずいぶん後から気が付いた。

説明したところでカテゴライズ出来ないスキー。
その頃がきっと今までで一番スキーをしていた気がする。
あ、かんじきと言う名のスノーシューもね。

 

こういうのはその頃面白いとか面白くないとか考えたことないんだけれど、
雪だけのせいじゃない真っ白な時間は好きだった。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

で、じーちゃんの言った大人になってずいぶん経った今
どうだったかと聞かれると…
今もこんな風に遊んでいます、おかげさまでこうしてネタに出来ました。
と笑うが吉

 


さんためーるのおもひで

昨日はゲストがお帰りになられた後、ちまちまと作っていた。
丁度叔母からご依頼があって
12月と言えば…。

母が8人兄弟という事で従妹の数も多い中で育ってきた。
今回ご依頼のあった叔母の家にいる従妹は一回りほど年下

二十歳過ぎ、
札幌に住んでいた私がサンタメールと言うのを見つけて送ってみようか…と。
実家や、その従妹と歳の近い何人かに送ったら一番喜んでたのが彼女だ。
彼女の父はその何年か前に急逝して当時はまだ小学生低学年だったはず…。
小学校高学年になったら、もう楽しんでもくれないだろうなぁ。
って一年限りのつもりだったのだが…
当時人見知りで無口な彼女が、熱い反応を示して要望したらしい。

それを叔母から聞いた母、
母自体はサンタメールに自分は薄い反応だったのに、
『誰でも郵便局行ったらサンタメール送れるよ…』
なんて私の言葉は全く以てスルー。
私にサンタメール係を特命し、以後何年かサンタメールを送る係となった。

あれから数十年が経ち…
彼女は叔母と一緒に住み、働きながらシングルで二人の子を育てている。

佳き満月で無事発送できそうです。
叔母の注文と一緒に。

ちょっと遅くなったけれど。
大人になったあなたへ サンタメール